陰山商会(不動産業)
私の日記 日々の追憶浅草寺、そして雷門
昔の姿のままに再建された浅草寺の正面入り口、最初の門は平公雅によって浅草寺の総門として、942年に建てられたそうである。数度の火災により焼失したが、1635年に徳川家光によって再建された。その門は、右に「風神」、左に「雷神」を安置してあることから、正しくは「風神雷神門」、略して「雷門」と呼ばれた。現在の「雷門」は鉄筋コンクリート製である。松下幸之助氏が寄進されたそうである。
浅草寺は,聖観音宗の総本山で、ご本尊は、「聖観音菩薩像」である。江戸市中の多くの寺院の中でも最古の寺だそうである。幕府の庇護とその政策により、近隣に歓楽・遊興の街が形成されたと言う。そのことから、多くの人を集めた江戸一番の繁華街となったそうである。本堂は、1649年に徳川家光が再建し、現在のものは1958年に再建されたものである。現在、浅草寺では、本堂落慶50周年の記念開帳がなされている。
10月27日のニュースによると、大わらじが仲見世を通り、宝蔵門に奉納されたそうである。長さは4.5m、重さは500㎏の大わらじである。誰が履くの? それは、風神様、雷神様ですよ。大わらじは、宝蔵門の裏手に掛けてある。
浅草寺五重の搭
浅草寺本堂の南西側に五重の塔が立っている。右の写真は本堂の横から、真ん中は本堂の前、右は小舟門の後方からのものである。
五重の搭は、942年に平公雅によって本堂の東南側に建てられたが、数度の火災で焼失している。1648年、徳川家光が再建したが、昭和20年の戦災で焼失している。現在のものは、昭和48年に再建されている。地上からの高さは53.32m(搭の高さ48.32m、内九輪部分15.07m)だそうである。最上階の五層には、スリランカ伝来の仏舎利が納められているそうである。
浅草寺、そして五重の搭は浅草の名所であることは言うまでもない。
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夜の浅草、ちょっと歩いて
夜の浅草、子供と夕食を食べて、浅草公会堂界隈を歩き、浅草寺の方へ行ってみた。右の写真、屋根の上には何やら上っている。そう、ネズミ小僧が瓦の上にへばりついている。景気が悪い中、在る所の物を盗んで、配り回っているのやら・・・?
伝法院通りを抜けて、浅草寺、そして仲見世通りへとやって来た。
人影はあまりなく、昼間の人での多さとは打って変わって静かである。ちょうちんが並び、非常に趣がある。現在は記念行事が開催され、境内にはいろんな店が出ており、いつもよりも賑やかなようである。
上京したときには、いつも浅草寺へとやって来る。子供が近くに住んでいることもあるが、浅草という町が何となく好きである。下町の情緒豊かさがあるためだろうか?それとも、子供達が小さかった頃、この場所を訪れて、子供達が楽しく遊びまわったことの思い出が残っている場所だからなのだろうか? 少なくとも、好きな所があるだけ幸せなのかも知れないと思う。
芸能人の手形
浅草公会堂のところを歩いていると、芸能人の手形がたくさんあった。歌舞伎の中村勘九郎、市川団十郎と、歌舞伎の大御所たちである。
まだたくさんあるが、萩本欽一、美空ひばり、ビートたけしの手形である。浅草寺の裏には、昔のSKDのあとにホテルが建ち、歌舞伎座や浅草ショー劇場などがある。下町の匂いのする浅草は、人情豊かな感じがする。しかし一方では、ホームレスがたくさんいるようでもある。上京した時いつも寄るところがある。子供が江東区にいるため、浅草に宿泊することが多い。いつも寄るところは、「ひつまぶし」を食べるためである。その店は、「どっちの料理ショー」でも紹介されたことのある店だそうであるが、余り大きな店ではないが、とても美味しい。ダイエット中にもかかわらず、たくさん食べてしまった。
品川から浅草へ
2日間12時間に渡る研修会が終わった。肩が凝り固まり、腰も張っている。長い時間の研修は、さすがに疲れてしまう。今、品川駅前にいる。これから京浜急行で浅草に向かう。東京には子供が二人いる。長男は軽井沢に出張中、三男と夜に会う。東京で働く三男だが、どのくらい社会人として成長しているだろうか。浅草に着いたら、浅草寺に行ってみようと思う。





