心配り

私の仕事は不動産業である。色んな建築業や不動産業の人たちから物件資料がメールで送ってくる。今日は、その資料を整理してIpadに私の物件資料として取り込んだ。PDFファイルを種別ごとに分けて整理する。とても根気の要る仕事だが、何とか集中力を切らさずに頑張った。

「行動派積極的にすべし、そこに結果はついてくる・」と言うことだろうと思う。心は空に、単純な資料整理でも、楽しく仕事はしようと思っている。そんな中、ある建設会社の資料送付に添付されていたものがあった。

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ガーベラの写真がそうである。花言葉は「気高い美しさ。」だそうである。こんな小さな配慮が心地よい。花言葉の「気高い美しさ」だが、果たしてどんな美しさなのだろうか? 字から意味は分かるが、私なりに解釈してみた。気品のある美しさ、それは心の美しさに通じる。全てのもの、全てのことは心のあり方に起因する。それは目に見えるものではない。感じるものである。感じる心がなければその心は感じることが出来ない。また一人一人感じる心も違っている。だから、感じた人の心、その感じ方で感じたもの、少し、それとも大きく感じるのかはそれぞれだろうが、そこに感じた心が気高さだと思う。それが心配りに通じることなのだろう。

夜空を見上げると

昨日仕事が終わって帰ろうとして外に出た。外はもう暗くなっていた。空を見上げると、南西の空に三日月が出ていた。月の直ぐ左手には星が輝いていた。

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写真を撮ったが、夜空の星を撮るのは中々難しい。住宅の屋根の上にあった月と星、他の星は見えなかった。星は金星だろうと思う。小さな星は周りの灯りに負けていたのだろう。

月や星を見るとホッとする。俗世間の人間関係などは何もない。あるのは空間だけ、広大な宇宙の中にポツリと浮かんでいる。でもj実際は星も一定の法則の中で動いている。金星も88日で太陽の周りを回っているのには違いない。月だって地球を回っている。そんなことを考えると、全てのものは何かに関係していることになる。

でも広大な宇宙空間、狭い地球にいる人類と比べると雲泥の差がある。遠い遠い無限の世界に何かを感じるのかもしれない。

忙しさの中に

毎日、一日が忙しく過ぎて行く。心の中だけは忙しさとはかけ離れた世界においておきたいのだが、心が貧しいのか、何となく気忙しくなってくる。そんな中に「選択本願念仏集」の解釈本を読んでいる。これは浄土宗の開祖である法然上人が書かれたもので、当時は6人の弟子にしか見せられなかった巻物である。今では凡夫の私でも見ることが出来る。

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写真は浄土宗の本山の知恩院である。選択本願念仏集には中国の善導大師の教えを受け継いだ部分なども書かれている。法然上人の人柄などが良く分かるようでもある。同時に専修念仏を説かれ、それを一心に伝えられた心も見える。疫病が流行り、戦国の世の乱れや朝廷の力などによっても、信仰なども左右されてきている。

選択本願念仏集を読んでいると、五木寛之氏の下山の思想ではないが、比叡山での地位を捨て、山を下り、庶民の中で仏の教えを説いている法然上人の姿が何となく見えるような気がする。

色んな本が私の所に集まり、それを片っ端から読んでいる。色んなことが考えさせられる。しかし、まだ煩悩の多さにはビックリする。煩悩を捨て去ることが出来るだろうか? 今日の空は晴れ、清清しい空があった。

遠い昔を振り返って

西大村小学校3年生の時の写真が出てきた。当時はモノクロの写真である。図工の時間、校庭で写生をしている。この西大村小学校は、明治2年に学制が発布されてから直ぐに開校された学校である。

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写真は手前の方が私である。多分昭和32年だと思う。校舎は古い木造の建物、正面に築山が見える。そして写真正面の建物が職員室になっていた。戦後十二年だが、戦後生まれの私には戦争のことなど分からない。当時は物不足があったのだろうが、特に不便を感じたことは無かったように思う。最近は物質文化が進み、誰もが携帯電話を持っている時代、当時は電話すら一般家庭には普及していなかった。しかし、今よりは心は豊かだったように思う。遊びもテレビゲームなんてありはしない。テレビもやっとこの頃に大村では出現した。高嶺の花のテレビだった。遊びは、カン蹴りやかくれんぼ、山に行っては探検ごっこなど、考えると素朴な遊びだった。しかも日が暮れるまで良く遊んだものである。

最近は心の空虚さを感じる。人間関係の希薄さを感じる。自分中心の社会を感じる。何事も薄っぺらな社会のように思う。必ずしも昔が良かったと言うわけではないだろうが、少なくとも心の豊かさはあったように思う。懐かしい写真に触れて、昔を思い出してしまった。

東大村から鈴田の山を臨む

今日は朝から小雪がちらつく寒い日である。朝から東大村へと上った。気温の低い中、冷たい風が吹いてくる。しかし、澄み切った空気が心地良く身体の中まで入っていくようだ。

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用件を済ませ鈴田の方角を見ると、雲は雪雲である。少し雪もちらついている。そこに仏舎利塔が小さくではあるが見える。白く見えるのがそうである。綺麗な空気、冷たく身を引き締めるような冷たい風、山並み、木々の色、そして雲、そこに自然の美しさと癒しがある。仏舎利塔に向かって手を合わせる。仏教の世界、舎利禮の読経が聞こえてきそうな感じがする。

寒空の中に祈る

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朝方は晴れていた天候も次第に雲が多くなってきた。全国的な冷え込みは、わが町も例外ではない。写真は向陽町、街路樹のイチョウの木は落葉後はまだ裸のままである。北風が葉のないイチョウの木を撫でていく。着込んでいる私も冷たさが身に沁みる。

今日は他界してしまった母親の納骨の日である。小高い場所にある墓には冷たい北風が吹く。母親が「こんな寒い日にはお墓には入りたくない。」と言っているようにも感じる寒さである。冷たい風が吹き、読経が響きわたる中に納骨が無事に終わった。墓前に供えた花がひと際綺麗だった。

浄土の世界へ旅立った母、これから新しい世界での修行が始まることだろう。出来るならば、花いっぱいの世界で楽しい毎日を送れることを祈りたい。そんな思いで合唱する。「南無阿弥陀仏・・・・・・・」と十念を唱える。

寒い日に思う

今日も全国的に寒い天候である。雪のところも多いようだ。数年前の3月に上越新幹線で新潟に向かったことをふと思い出した。

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写真はその折,新幹線の中から写したものである。3月とは言え山には雪が、一面の雪景色であった。九州にいる私は雪景色などはめったに見ることはない。南北に長い日本列島、狭い国ではあるが、南北の気温差は大きい。

雪景色には憧れみたいなものがある。雪のない所に住むからだろう。純白な雪、そんな雪にあこがれる。世の中のもの全てを純白の雪で洗い流すことができるならば、どんなにか良いことだろう。世の中のもの、周りのこと、色んな煩わしいものが人間社会の恥部になっているようだ。雪と共に心の中も洗い流したいものである。

蓮華に抱かれ

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今日は先般他界した母の七七日の法要を営んだ。お寺様の読経の中、在りし日の母の顔が浮かんでくる。長く患っていた母、体が不自由になった母、一生懸命頑張ってきた母、そんな母親の姿が瞼に浮かんでくる。

中々親孝行なんか出来ない。そんな思いが湧いてくる。際限のない親子の思いは、際限なく続いていく。これでいいのだと言うことはない。だから、悔いは残ってしまう。

今日を境に母親は浄土の世界へと旅立っていく。浄土の世界の修行のために、現世の執着を断ち切っていく。思いは多けれども、その思いは捨て去らなければならない。私たちは母親の菩提に対して回向して行く。浄土の世界で安からんことを願って・・・。

朝に仰ぐ空

朝方は黒い雲が覆い、何層かの雲が重なっていた。その奥にある太陽はその雲の隙間から顔を出そうとしていた。

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雲の間から顔を出した太陽は、また雲に覆われていく。下界もまた日が照ったり陰になったりと忙しい。

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北東の空はまた違った雲と、太陽の光の反射がある。いつも感じることだが、自然の織り成す色合いはとても複雑で、色の変化がとても綺麗である。何とも云い様の無い色合いだ。クロード・モネの絵でも見ているような感じさえするが、モネですらこんな色合いが出せるだろうか? そして、いつも違った空の景色、雲の形、雲の色、雲の変化である。雲を見る時、空の彼方への思いがある。その場所へ行ってみたい。大空を飛んでみたい。もっと先の大気圏の外から地球を見てみたい。何となくそんな憧れが湧いてくる。宇宙万障、すべからく一体である。そんな思いもある。

招き猫と硯

私の事務所に前から置いている招き猫、置いているだけで日の目を見ることがない。今日は埃を拭いて机の上に置いてみた。よく見ると可愛い顔をしているではないか?不景気の昨今、猫にも福を招いて欲しいものである。でも他力ではダメ、自分が努力して福を迎え入れなければならない。原因がよければ良い結果が出る。それが因果応報である。努力のないものには良い結果は与えてくれないと思うのだ。

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招き猫の横には小さな硯箱、昨年奈良で買ってきたものである。この小さな硯を使って般若心経の写経をしている。写経は自分の修行と言えば修行であるが、では写経をして何になるの?そんな素朴な疑問も湧いてくる。

何事も継続することに意味があるのだと思う。自分の思いは他人とは何等関係ない。あくまでも自分の心の中にあるものである。その中に価値を見出すものでもなく、ただ結果がそこにあるだけ、写経で言えば何枚になったのかと言った位のもの。でも何かが変わっている。自分には分からないが、何かが変わっているのには間違いない。

世の中には目に見える世界と見えない世界がある。見える世界の変化はよく分かっても、見えない世界の変化は分からない。しかし、何事も変化を信じて前に向かうことが大切である。招き猫の福を一緒に招いて行こうと思う。目標に向かって、精一杯の努力をして・・・。

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